新年のご挨拶、そして思うこと徒然
新年あけましておめでとうございます。
今年は新年早々、能登半島地震という天災に見舞われる幕開けとなりました。なにも正月に。。。おそらく皆さんがそう思ったことでしょう。いや、天災は人間の事情には関係なく起こるものですが、何故か最悪のタイミングで起こるのが天災だと思います。皆がのんびり一家団欒で自宅でくつろいでいたところ、突然襲った大地震。神も仏もないのかと感情的には思いますが、今は地質学的には1000年に一度の地震活動期。また、能登半島は直下にフォッサマグナ、大陸プレートもあり歴史的にも地震が多い地域でした。科学的に考えれば、「可能性は大いに有り得る」地震であったと考えられるそうです。
私も東京女子医大に留学中、東日本大震災で被災しました。当日は大学の図書室で調べ物をしていたのですが、当日の朝、2歳の息子が風邪気味であったこともあり、何となく胸騒ぎがして仕事を早引けし、帰宅途中の地下鉄内でのことでした。急に電車が急停止し、電車内が真っ暗になりました。その後、すぐにゆっくりとした横揺れから激しい縦揺れ。。遊園地であるツインドラゴンのような。。。電車がひっくり返るのではないか、と一瞬思ったほどでした。私は大学時代、バスケ部でかなり体幹を鍛え足腰の強さには自信があるのですが、それでも立っているのがやっとでした。これまでの人生で経験したことのないような、命の危険を感じる揺れでした。やがて誰かがラジオを付け、どこかで大地震が起きたと速報が流れました。
やがて直近の駅で乗客全員が降ろされ、何とか地上に出ると、地面全体がうねっているような感覚に襲われました。めまいのような、地面が不安定な状態で、まっすぐ立っているつもりなのに足元が心もとない感じでした。このあとから、実に1ヶ月に渡る余震が東日本に続きます。後に耳鼻科医のお母さん友達は、めまい症状を訴えて受診する患者さんが激増したと語っていました。
その後は夢中で小学校に娘を迎えに行き、保育園に息子を迎えにゆきました。自転車でしたが、地面が揺れ、時々立ち止まって余震をやり過ごしました。途中大きな余震が来たときは、近くの商店街の奥さんが「これ被って!」と買い物かごを被せてくれました。いまでもスーパーの買物かごを見ると思い出します。福島に大津波が来たことを知ったのはそのスーパーの向かいの電気屋のTV放送を見た時でした。
幸い、娘と息子は学校の先生と保育士さんがしっかり守っていてくれました。未曾有の大震災でご自身のご家庭も心配だったでしょうに。。。小学校の先生方、保育士さんには感謝してもしきれません。娘の小学校の校長先生はそれから3日間学校に泊まり、帰宅困難者となり子供を迎えになかなか来れない保護者のいる中、最後の一人の保護者が迎えに来るまでしっかり保護していたそうです。その先生の教育者としての姿勢、責任感は今の自分にも大きな影響を与えています。
その後数時間で福島原発の情報。絶望に追い打ちをかけるようなそのニュースは日本全国がショックを受けたことと思います。その日見た空の景色が「色がなくモノトーンだった」ような感覚は一生忘れません。人間は強いショックを受けると視覚情報に影響を受けることが医学的に証明されていますが、まさにそのことを経験した瞬間でした。これは漫画家「とりぱん」という東北在住の漫画家さんも同じことを作品内で述べていました。普段がほのぼのした雰囲気の自然派漫画の方なのですが、地震を取り扱った回はシリアスタッチで描き込みも少なく、それだけに天災が人の心に及ぼす影響を感じさせられました。ちなみに、「Fukushuma 50」という映画で福島原発の職員の方々の奮闘の様子が映画化されています。まだ見られていない方は、是非ご覧になることをお勧めします。
今現在、被災者の方は絶望感と苦しみと、なぜこんなことにといった困惑の中、不安で押しつぶされそうな気持ちであると思います。 小児科医の立場では、現場の子供たちが新年の喜びもつかの間、このような不幸に見舞われて、どんなに悲しく不安に思っていることかと胸が痛みます。また、インフルエンザや胃腸炎などの流行時期でもあります。特に、乳児や幼児は環境の変化に弱く、体調を崩しやすい時期です。充分な医療物資がない中、当地の医療従事者の方は奮闘しておられると思うと、何もできない自分にやるせない思いがします。寄付でも義援金でも、少しでも自分に出来ることから始めようと思います。
もはや日本国民で一度も地震を経験した事のない人は稀有ではないでしょうか。震災の経験を積み重ね、迅速で一日も早く生活を正常化可能とするシステムや被災時マニュアルを協議し、いざ震災時にどのような体制で起動するかを国民全体で考えてゆく時代なのだろうと思います。
新年から長々長文失礼しました。
被災地の方々には心よりのお見舞いと、一日も早い復興をお祈りします。